貨幣錯覚とは?金額と実際に買える量を分けて考える

意思決定理論・行動経済学
Psychology Laws 編集部

「予算が5%増えた」「給与が3万円上がった」と聞くと、前より余裕が増えたように感じます。けれども、同じ期間に商品やサービスの価格がそれ以上に上がっていれば、実際に買える量は減っているかもしれません。

このように、物価の変化を十分に反映せず、金額そのものの増減を重く見て判断する傾向は、貨幣錯覚(money illusion)と呼ばれます。

貨幣錯覚を避けるには、「何円増えたか」という名目額と、「その金額で実際にどれだけ買えるか」という実質的な価値を分ける必要があります。この記事では、代表研究と追試を確認したうえで、給与・予算・価格を仕事で比べる方法を説明します。

貨幣錯覚とは?名目額と実質的な価値を分けて考える

Shafir、Diamond、Tverskyは1997年、貨幣錯覚を、実質的な貨幣価値より名目的な貨幣価値で考える傾向として整理しました(Shafirら, 1997)。

ここでいう「名目」と「実質」は、次のように分けられます。

  • 名目額:表示されている金額そのもの。給与30万円、予算100万円など。
  • 実質的な価値:物価の変化を考慮した購買力。その金額で実際にどれだけの商品やサービスを買えるか。

たとえば給与が5%上がっても、同じ期間に生活費が4%上がっていれば、購買力が5%増えたわけではありません。厳密な実質変化率は「(1+名目変化率)÷(1+物価上昇率)-1」で求められ、この例なら約0.96%です。物価変化が小さいときは「5%-4%=約1%」という差し引きでも概算できます。

IMFも、消費者の購買力を見る実質賃金について、名目賃金を消費者物価で調整したものとして説明しています。名目所得の伸びが物価上昇に追いつかなければ、買える量は減ります(IMF, 2010)。

研究で分かっていること

貨幣錯覚について重要なのは、「人はインフレを理解できない」と単純化しないことです。研究では、経済状態について尋ねるか、幸福感や転職について尋ねるかで、別の参加者群の回答傾向が異なりました。実質的な有利さを判断する質問では購買力が重視されやすい一方、幸福感や行動を予測する質問では名目上の昇給幅が回答に影響しました。

1997年の研究では、経済判断と幸福感の判断が分かれた

Shafirらは、同じ3万ドルの給与から始めた2人を比べる問題を参加者に示しました。

  • Ann:物価上昇率0%の年に、給与が2%上昇。
  • Barbara:物価上昇率4%の年に、給与が5%上昇。

購買力で見ればAnnの方が有利です。Annは実質約2%増えていますが、Barbaraは実質約1%の増加だからです。

この3つは、同じ参加者がすべて答えた結果ではなく、質問ごとに別の参加者群を比較した結果です。「経済的にどちらがよい状態か」と聞かれた群では71%がAnnを選びましたが、「どちらが幸せだと思うか」と聞かれた群でAnnを選んだのは36%、「他社へ転職しそうなのはどちらか」と聞かれた群では65%がAnnを選びました。したがって、同じ人が実質的な有利さを理解したうえで別の答えをしたことを示すのではなく、何を基準に評価するよう求められたかによって、回答の分布が変わったと読むのが適切です(Shafirら, 1997)。

2021年の追試でも主要な結果が再現された

Zianoらは2021年、米国のオンライン参加者604人を対象に、Shafirらの4つの主要課題を追試しました。その結果、給与、取引、売買、契約に関する4課題すべてで、元研究と同じ方向の貨幣錯覚が再現されました(Zianoら, 2021)。

追試でも参加者は3つの質問のうち1つに無作為に割り当てられました。経済状態を答える群では56%がAnnを選び、幸福感を答える群では35%、転職しそうな方を答える群では69%がAnnを選びました。ここでも、同じ参加者の回答が途中で変わったのではなく、別々の参加者群の回答分布を比べています。

さらにこの研究では、インフレ率を知っていることや正しく推定できることが、貨幣錯覚の弱さと明確には結びつきませんでした。知識があるかないかだけでなく、判断するときに名目と実質のどちらを前面に置くかが関係すると考えられます。

市場全体への影響については研究上の議論がある

FehrとTyranは2001年、実験市場で名目値を使って判断する状況を作り、少数の参加者の貨幣錯覚でも、市場に出回るお金が減るような変化の後に、価格が新しい状況へ下がっていく調整を遅らせる可能性があると報告しました(Fehr & Tyran, 2001)。

ただし、その解釈には議論があります。PetersenとWinnは2014年の追試・拡張で、名目利益を実質利益より直接選ぶ証拠は確認できず、課題の認知的な難しさが価格調整の遅れの多くを説明すると論じました(Petersen & Winn, 2014)。FehrとTyranは同年の返信で、貨幣錯覚は「他の人が今後どの価格を付けるか」という予想にも影響し、その結果、価格が新しい状況にすぐ合わせて変わらず、調整に時間がかかることを説明するうえで重要だと反論しています(Fehr & Tyran, 2014)。

そのため、個人の判断で名目額に影響される現象は支持されていますが、それが市場全体の価格調整をどの程度説明するかは、一つの研究だけで確定した問題ではありません。

金額を比べるときは「何が買えるか」に直す

仕事で給与、予算、売上、価格を比べるときは、数字の増減だけでなく、その数字が表す実質的な価値を確認します。

見る数字そのままでは分からないこと追加で確認するもの
給与が5%増えた生活水準が5%上がったか消費者物価の変化
部門予算が8%増えた購入できる商品・外注量が増えたかその部門が買うものの価格変化
売上が10%増えた販売数量や実質的な成長が10%増えたか価格改定、販売数量、商品構成
仕入価格が前年と同額相対的に割安になったか他の調達価格や市場価格の変化

使う物価指標も目的によって変わります。従業員の購買力なら消費者物価が一つの基準になります。一方、会社のIT予算なら一般的な消費者物価より、実際に購入するクラウド利用料や外注費の価格変化を見る方が判断に合う場合があります。

仕事での具体例と活かし方

以下は研究で確認された企業事例ではなく、貨幣錯覚を仕事の判断で避けるための仮の場面です。

ある部署の年間外注予算が、前年の1,000万円から1,050万円へ増えました。担当者は「予算が5%増えたので、今年は外注できる仕事を増やせる」と考えています。

しかし、同じ外注先の料金が平均8%上がっているとします。昨年と同じ仕事を買うために必要な金額が1,080万円になっているなら、1,050万円の予算では昨年と同じ量を買えません。

この場面では、次の順番で確認します。

  1. 名目額の変化を確認する。
    1,000万円から1,050万円なので、予算は名目上5%増えています。
  2. 比較対象の価格変化を確認する。
    実際に買う外注サービスの単価が8%上がっているなら、一般的な物価だけでなく、その8%を基準にします。
  3. 実質的な購買力に直す。
    1.05÷1.08-1で計算すると、実質的には約2.8%減っています。「予算増」と「買える量の増加」は別です。
  4. 金額ではなく必要量と成果を確認する。
    何人日を確保できるか、何件を委託できるか、どの成果物まで作れるかに置き換えて比較します。
  5. 会議では名目値と実質値を並べて示す。
    「予算+5%、対象サービス価格+8%、実質購買力約-2.8%」のように表示すると、金額だけで判断しにくくなります。

貨幣錯覚への対策は、すべての金額を複雑な経済指標に変えることではありません。判断したいものが「金額そのもの」なのか、「その金額で得られる商品・サービス・生活水準」なのかを先に決めることです。後者なら、物価や単価の変化を入れて実質的な価値で比較します。

参考文献・出典